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(郷土の偉人)   菅原源八 

好学で敬愛された村の指導者

菅原源八(すがわら げんぱち)

1794年(寛政6年)4月16日生     1879年(明治12年)86歳没

 菅原源八は昭和町新関の人で、旧藩時代から明治にかけて、村の指導者として、また仁医として、多くの人々に慕われ尊敬を一身に集めた人物である。幼名を熊蔵、家督を継いで善成、源八を襲名する。21歳から50歳まで、新関村長名役(おとな)、続いて63歳まで大久保村肝煎役(きもいり)を勤め、その後、元木村に隠居所を造り、晴耕雨読の生活に入った。この草庵に一本の松を植え三個の大石を据えたことから、一松軒三石と号した。多才な趣味人で、医業では貞岩(じょうがん)、花・茶道で松影、俳句で昭花堂柳斎(りゅうさい)また蛙夕(あせき)、狂歌では礎久(そきゅう)とも号している。
 祖父・父とも篤農家であったが、源八はさらに精をだして働き、田畑を50ヘクタールほどに増やして家業を盛んにした。しかし、欲望の限りなくなるのを自ら戒めて、これ以上の蓄財をしなかった。天保4年(1833)に史上稀なる大飢饉があり、村民は窮乏の極みに達したが、その際、私財を投げ打って難民の救済に奔走し、かつ、藩の財政にも少なからず協力した功労に因って、苗字、帯刀を許され、藩主佐竹氏紋入りの裃(かみしも)を拝領、さらに四人扶持を頂戴したが、その禄は返上して受けた賞賜に、少しも驕(おご)ることはなかった。
老境ながら没年の86歳まで、随筆を記録し続けて48冊もの著作を残している。その著述の内容は、総じて自身の体験・思い出、折々の世相に触れては、その感想を綴ったものである。特に、人たる者は何よりも身を慎んで誠実に暮らすことが肝要であると、繰り返して説き、虚飾を嫌っている。また、史籍の引用をしつつ、己の考えを率直に述べ、その是々非々を論じている。至る所に即興の漢詩・和歌・俳句・川柳などをさし挟み、花鳥風月の雅趣に浸り、或いは虚作風にくだけても見せ、自由闊達に筆を振るっており、その博覧強記には目を見張るものがある。門弟たちが源八の徳を慕って、師恩に報いるため、明治3年(1870)に立派な筆塚を建立した。源八が77歳の時であった。菅原源八は、あくまでも農作の豊凶を心配する一介の農民に徹し切り、正しいと思う信条をもって生涯を貫き、平凡な農民にあって、自らを高める努力を重ね、人のために尽くし、謙虚な一生を過ごした人物であった。一地方に於て、巧まずして文化的風土を培(つちか)い、後々までも、得意な光を掲げた郷土の偉大なる先覚と言えるであろう。


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